Mika Ahola

Photot : Hisashi Haruki

Photot : Hisashi Haruki

コラム 「ミカ・アオラ 無冠の帝王から真の勇者へ」 春木久史

2012年1月、あまりにも突然の訃報が届く直前に執筆、掲載されたものです。まさか、次の号に追悼の記事を載せることになるとは、当然のことながら想像してもいません。12月13日。ミカ・アオラという偉大なライダーがこの世に生を受けた記念すべき日に、あらためてその足跡を思うために、当時の記事から抜粋し、加筆修正したものですが、ここに掲載したいと思います。(メールマガジンにも既出です。すでにお読みいただいた方は、どうがご容赦ください)

引退の言葉
 「21年間の競技生活を経て37歳という年齢になり、私は熟慮の結果、エンデューロコンペティションから引退することを決意しました。理由は、私がすでに競技の結果に対して充分な野心(ambition)を持っていないということです。私は最初にフィンランドで勝利を得て、世界最速の雪のライダーになりました。その後、世界選手権に参加するようになり、5回のワールドタイトルを獲得しますが、それはすでに引退を考えなければならない年齢になってからのことでした。それはとてもハードな日々でした。連続して5回のタイトルを獲得しますが、その最期のタイトルは、世界で最も高齢でのタイトル獲得という記録です。 これらの記録にはとても満足しています。またフィンランドの代表として7回参加したISDE=インターナショナルシックスデイズエンデューロでは、3度のオーバーオールウィンを獲得することもできました。FIMは2004年以降は、オーバーオールクラスを廃止しましたが、すべてそれ以前の記録です。 私は、エンデューロというスポーツに持ちえる野心を完全に満足させることができました。そして私は、次の段階に進み、レーシングではない何かを発見したいと思っています。最後に、私と私の競技生活を支えてくれたすべての人たちに感謝を伝えたいと思います。同時に、私と戦ってきたライダーたちにも感謝します。 ミカ・アオラ」

栄光への長い道程
 Emperor without a crown (無冠の帝王)、それがミカ・アオラの長く苦しいワールドエンデューロにおけるキャリアを象徴するニックネームだ。フィンランド出身のライダーは、イタリアのtmレーシングに加入した1997年に、早くも125ccクラスでランキング2位まで上り詰めた。1999年ISDEポルトガル大会ではオーバーオールウィン、そして2001年、2002年も続けてシックスデイズのオーバーオールクラスを制覇していくのだが、肝心の世界選手権では、2位、3位というランキングが積み重なっていく。2001年からは、ヴェルティマティの怪物マシンをベースとした市販モデル、VORのファクトリーチームに移籍。最大排気量クラスを戦うことになった。
 ハイパワーだが暴れ馬のようなマシンにムチを入れてスペシャルテストを攻めるアオラは、Husqvarnaのアンダース・エリクソンと互角の戦いを演じ、ポイントでリードして最終戦を迎えた。スペシャルテストは得意のサンド路面で、アオラに有利と見られていたが、ここで痛恨のスタック。そのタイムロスが響いてタイトルはエリクソンのものになった。その差わずか1ポイント。3位のカールソン(フサベル)には40ポイントという大差をつけていた。

 2002年もアオラとエリクソンの戦いは続いた。VORはそれまでのボルト締結組立式のフレームから、ツインチューブの新型シャーシに変更。エリクソンはTE570でマシンの性能は互角。KTMのカリ・ティアイネンはすで引退が近く、イタリアのベテラン、マリオ・リナルディもYZ426Fで参戦していたが、二人のタイトル争いにはからんでくることができないでいた。アオラとエリクソンの接戦は中盤のベルガモまで続いていたが、ここでアオラのVORにブレーキトラブルが発生し、1日ノーポイント。結局またもやランキング2位でシーズンを終えた。
 2003年は同郷フィンランドのユハ・サルミネンが500ccクラスにスイッチ。KTMファクトリーチームに対し、VORはプライベートチームに近い体制で善戦するが、3位に終わった。タイトルはサルミネン、2位に割って入ったのはKTMの新人イヴァン・セルバンテスだった。ミカの実力はいつでもタイトルを狙えるものだが、これでもか強豪が立ちふさがる。若手の台頭も著しかった。

 VORは屈辱のままワールドエンデューロから撤退。2004年からは、CHレーシングに移籍。2005年までHusqvarnaに乗ることになったが、2シーズンとも4位と成績はぱっとしなかった。32歳。そろそろ引退を考える年齢でもあったが、2006年にはHM-HONDAのシートを得ることになった。HONDAでの最初のシーズンはE3クラスでランキング2位。好感触を得たアオラは、2007年には4ストロークのCRF250RでE1にスイッチ。シーズン序盤から快調に飛ばし、最終戦までランキング首位。
 迎えたフランスGP、初日に6位以内でフィニッシュすればタイトル獲得という展開だったが、これまで何度も目前でタイトルを逃してきたアオラにとっては、薄氷を踏むような気持ちだったに違いない。だが、ついに勝利の女神は「無冠の帝王」に真の栄冠を手渡した。その時のコメントは、もう一度記録しておくべきだろう。

 「マシンを壊してしまうのが怖くて、とにかく慎重に走っていた。地に足がつかず、一日中、まるで自分が自分ではないような気分だった。いつも大事な時に限って不運だったり、何かのトラブルが起きてタイトルを逃してきたからね…。最初に世界戦で優勝してから、11年間もこの日を夢みてやってきた。ついにやったよ!!」

真の勇者
 2010年 EWCイタリア大会。ポディウムでのミカ・アオラは、流暢なイタリア語を話し、チームパドックでサインや記念撮影を求めるファンに人一倍にこまやかに対応。他の誰よりも人気のあるライダーだった。考えてみれば、ワールドエンデューロに初参戦して以来、所属したのはすべてイタリアのチームなのだった。

 「以前はとにかく速く走る。スペシャルテストでベストなタイムを出すことだけしか考えることができなかった。でも、それから少し考え方、走り方が変わった。時には2番でもいい、3番でもいい。最終的にポディウムに立つことを大事にするようになった。シーズンを通じて戦うという考え方ができるようになったことが、今の強さになっていると思う」。
 かつては若さゆえのミスが多かったということか。だが、ぼくはこうも考えている。確かに、2位に甘んじていた、土壇場でのミスで勝利を逃してきた。そこには、若さがあったかもしれない。でも、そうでもしなければハナっから勝負にならなかったという現実もあったのではないか。
 開発力、物量に勝る大チームに対し、VORでの3年間は、明らかに弱小チームでの戦いだったし、2004年、2005年のHusqvarnaも経営難のメーカーで開発はストップしていた。一方ライバルのKTMは会社もファクトリーチームもすでに絶頂の波に乗っていた。そこに挑むには、常にリスクを背負ってのフルスロットルしかなかったんじゃないだろうか。

 長く苦しい時期を乗り越えてきたからこそ、勝利の方程式を得た彼は誰よりも強かった。その姿は、堂々としてまさに勇者の貫禄。その栄光は、永遠だ。  END

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